日本人形のもっとも代表的なものが雛人形や五月人形ですが、ここでは、それ以外の人形のことを指すことにします。つまり、尾山人形(芸者姿)、舞踊人形、市松人形、博多人形、木目込人形などのことです。細かくいえば、こけしや清水焼人形、加賀人形、竹人形など姿や地域によってたくさんの人形がありますが、一般によく扱われているものについて述べたいと思います。
これらの「日本人形」が花開いたのは江戸時代に入ってからのことです。日本では、人形は「厄除け」や「かたしろ」として発展してきた経緯があり、雛人形がその最たるものなのですが、雛人形の発達と軌を一にしてさまざまな人形がその技術を基に生み出されました。
いわゆる尾山人形は、江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の流行によるところが大きいようです。人形浄瑠璃の流行によって、さまざまな表情の変化や複雑なからくりが要求され飛躍的に人形の制作技術が向上しました。
その後の歌舞伎によって、美しい女形の舞踊や芝居は、少しでもその姿をとどめようと多くの絵画や人形に写されてきました。絵画に用いられていた胡粉の用法をさらに進め、膠(にかわ)との調合が研究され美しい人形の肌の表現に成功したことも大きな要因でした。それまで、木彫りでしか作れなかった人形の頭が、桐塑という木粉に糊を混ぜて粘土のようにしたものを型に入れて作った頭に胡粉を厚塗りすることで、木彫りと同じような仕上がりの頭の量産が可能になったのです。
また、江戸時代後期には「生き人形」という生身の肌と見分けがつかないほどのものも作られ、また、手足の関節が自由に動くもの、ガラスの目なども考案され日本の人形の爛熟期ともいえる時代に入りました。この時期に松本喜三郎、安本亀八ら天才的な人形師が活躍し、その流れはその後も平田郷陽や堀柳女、芹川英子氏らに連綿と受け継がれています。郷陽らによって美術工芸として認められた人形は現在も伝統的な美術工芸のひとつとして注目を集めていますが、大きさの制限や衣裳を着た人形が除外されたことによって、受け継がれてきた迫力ある歌舞伎人形や艶めかしい衣裳着の尾山人形の評価が低くなっているのは残念なことです。
市松人形や博多人形にしても、節句の祝い品や土産物としてだけでなく、美術工芸品として充分に通用する力を持った作品もたくさんあります。
職人たちの研鑽により、さらに上質の人形が作り出されることを願ってやみません。
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